兵庫県でお酒の売却をご希望のお客様は...

兵庫県にお住いのお客様は買蔵の本部(横浜)で受付いたします。

宅配買取はこんな方にオススメ

出張買取に来てもらうほどの本数はない

少ない本数でもわざわざ出張買取や店頭買取を利用するのはちょっと。。。とお考えのお客様には、宅配買取がおすすめです。
買蔵からお送りする宅配キットにお酒を入れて、買蔵まで発送していただくだけなので、手軽にご利用いただけます。

店頭買取のために来店する時間がない、店舗が家から遠い

宅配買取なら、「日本全国、どこへでも」ご自宅にお送りした
宅配キットで時間や場所を気にせずいつでも買取させていただきます。

対面でやり取りすることに抵抗がある

当社のスタッフは親切丁寧な接客態度を常に心がけていますが、
やはり対面でのやり取りには抵抗があるとお考えのお客様もいらっしゃることと思います。
宅配買取であれば、誰とも会わずにスムーズに買取させていただくことができます。安心してご利用ください。

【宅配買取の流れ】

STEP.1 kaitori-mail

まずはお電話かお問い合わせフォームからお気軽にご連絡ください。

宅配キットをお客様のご自宅までお送りいたします。また、ご不明な点やご不安な点がありましたら、気軽にご相談ください。

STEP.2 takuhai-hako

宅配キットが届きましたら、丁寧に梱包してください。

配送中にキズがつくと、せっかくのお酒の価値が下がってしまいます。

STEP.3 takuhai-kuruma

梱包後、必要書類に記入していただき書類を宅配キットに同封し、佐川急便の着払いにて配送ください。

STEP.4 kaitori-ichiman

お客様のお酒が届き次第、査定させていただきます。査定後、お電話かメールにてご連絡いたします。

査定金額にご納得いただけた場合には、ご指定の銀行口座にお振り込みいたします。

査定金額にご納得いただけない場合には、お預かりしたお酒は責任を持ってお客様までお返しいたします。

兵庫県とお酒

兵庫のお酒事情

兵庫県酒造組合連合会には、明石酒造組合、伊丹酒造組合、淡路酒造組合、丹波・篠山酒造組合、加古川酒造組合、北兵庫酒造組合、社酒造組合、灘五郷酒造組合、姫路酒造組合があります。
日本の酒造において、伊丹と灘の果たした役割は非常に大きなものがあります。
下り酒の7割から9割は、摂泉十二郷と呼ばれる伊丹や灘の周辺地域のお酒でした。
摂泉十二郷のあいだでも、お酒の品質改良と技術革新、輸送手段の強化や江戸市中での営業活動など、競争は熾烈でした。
江戸時代前期は伊丹酒がトップブランドで、江戸時代後期に行くにしたがって灘酒が市場を席捲していきました。
こうした圧倒的な下り酒の商品力の前に、地廻り酒、御免関東上酒、藩造酒などはとうとう江戸時代の終わりまで江戸市場において対抗できるには至りませんでした。

伊丹の三段仕込み

慶長5年(1600年)に伊丹の鴻池善右衛門が、室町時代からあった段仕込みを改良し三段仕込みを開発しました。麹米・蒸米・水を3回に分けて仕込む製法で、清酒を効率的に大量生産することが可能になりました。これにより、清酒が一般大衆にも本格的に流通するきっかけとなったので、これを以て日本の清酒の発祥とみなし、伊丹市鴻池には「清酒発祥の地」の石碑が残っています。

伊丹の寒造り

江戸時代初期までは四季を通じて酒が造られ、新酒、間酒、寒前酒、寒酒、春酒と年に五回造る四季醸造の技術がありました。
しかし、寛文7年(1667年)、当時もっとも酒造技術が進んでいた伊丹で寒酒の仕込み方を改良して寒造りの技術が確立されました。
寒造りは、お酒の品質を向上させたばかりでなく、保存性が改善されました。
米が貴重品であった江戸時代、腐造による米の無駄をなくすために、延宝1年(1673年)、徳川幕府は酒造統制の一環として寒造り以外の醸造を禁止しました。
寒造りによって、酒造りは冬の仕事となり、冬場だけの農民が出稼ぎとして杜氏の仕事が生まれました。

近衛家による伊丹酒振興

寛文元年(1661年)に近衛家が伊丹の領主となると、特産品である伊丹酒に特別の庇護をあたえました。
伊丹で造られた酒は、「近衛殿御家領摂州川辺郡伊丹郷」として江戸や京都で拡がりました。五摂家の随一である近衛家の名がついたお酒は、他の何郷の酒よりも優先権を与えられ、造れば売れる状態でした。
船で江戸積される伊丹酒は、実に二十萬樽から二十五萬樽にも及びました。

灘酒

灘では室町時代にはすでに酒造が始まっていたとの記録があります。一般的には、灘における酒造りは約400年前、伊丹の雑喉屋文右衛門が西宮に移り住んで酒造りを始めたのが最初とされています。
海からの湿気と六甲おろしの寒気、播州の酒米が手に入りやすいなど、良い日本酒を造る条件が灘には揃っていました。

酒造の中心は伊丹から灘へ

伊丹では精米器は足踏み式で、一昼夜搗きでした。これに対し、灘では六甲山からの豊富な河川の急流を利用した水車が導入されました。水車式精米器で三日三晩搗き通した米で造った酒は、その淡麗な味わいが江戸で大評判になりました。
1840年に発見された「宮水」は、灘の名声を不動のものにしました。宮水は清酒造りに有効なミネラル分を豊富に含み、スッキリとした辛口の酒を造り出します。六甲おろしは有名ですが、この寒風を使った寒仕込みはお酒の品質を高めることになりました。
徳川時代、上方で作られた酒は大消費地である江戸に向けて出荷されました。
伊丹の酒は馬の背に樽を積んで、港まで運ぶ必要がありました。これに対し、沿岸部に接していた灘地域は大量の酒を樽廻船で運ぶことができました。樽廻船は酒を専門に運ぶ帆船で、20日ぐらいで江戸へ到着しました。幕末には3000もの樽を一度に運べる船も現われ、灘の発展におおいに役立ちました。

宮水(みやみず)発見物語

天保8年(1837年)に桜正宗の六代目蔵元であった山邑太左衛門が摂津国西宮で発見したといわれます。山邑太左衛門は西宮と魚崎で造り酒屋を営んでいたが、工程をすべて同じにしても双方で造る酒の味が異なりました。西宮で造る酒の良質な味の原因について、彼は「梅ノ木井戸」の水にあると結論づけました。
当初、「西宮の水」と言っていたものが、やがて略されて「宮水」と呼ばれるようになりました。
以後、灘の酒蔵は競ってこの地の水を使うようになりましたが、井戸を掘っても同じ水脈に当たらない酒蔵もありました。そのため、井戸を掘れば同じ味の水が出る地域の農民らが、井戸を掘り、そういう酒蔵に宮水を売るようにもなり、西宮に特有の「水屋」という商売もできました。

宮水の特徴

宮水とは、今の兵庫県西宮市の西宮神社の南東側一帯から湧出する、日本酒つくりに適している水です。
灘五郷の酒造に欠かせない名水として、江戸時代後期から知られています。
梅ノ木井戸の近くを流れる夙川の伏流水と、六甲山の花崗岩を通り抜けてきた水に、海水が微妙にまじりあって湧いた水と考えられます。水質は、ドイツ硬度で8°dH前後の中硬水で、軟水の多い近畿地方では珍しい。
宮水に多く含まれるミネラル成分(カルシウム・カリウム)およびリンは、麹や酵母の栄養分となり酵素の作用を促進します。また酒造りの水には少量の塩分の含有が好まれますが、宮水は海水の塩分がまじりあっています。
逆に酒造りに害となる鉄分は、宮水では0.001ppmと少ない値です。
このように宮水が酒造りには理想的な有効成分を含むことから、宮水を守るための水質保全活動がなされている。

山田穂

兵庫県美嚢郡吉川町の田中新三郎が伊勢参りの際、伊勢山田の近くで草丈が高く穂の大きい酒米を発見しました。
見るからにほれぼれするような酒米の一穂をを持ち帰り、栽培したところ、立派な酒米ができました。
その後、酒造家からも好評を博することができたので、豊受大神を祭る伊勢山田にちなんで、山田穂と名付けたと言われます。
背丈は高いが茎が非常に硬いため耐倒伏性に優れます。また、心白発現率は低いですが米の吸水性や消化性が非常に良いです。
1912年に兵庫県奨励品種に採用され、多くの姉妹種を生んだのち、1921年に新山田穂1号を、1922年に新山田穂2号が純系分離されました。
1923年短稈渡船と交配され山田錦の母本となり、山田錦は多くの新種の親株となっていくので、山田穂は昭和時代以降の大半の酒米品種の祖先になります。

最高の酒造好適米「山田錦」(やまだにしき)

山田錦は、主に日本酒醸造に用いられる酒造好適米の代表です。
大正12年(1923年)に兵庫県明石市の兵庫県立農事試験場で山田穂と短稈渡船を人工交配させて誕生しました。
昭和3年(1928年)に産地適応性の試験が行われ、昭和11年(1936年)に「山田錦」と名付けられ、兵庫県の奨励品種になりました。その後、全国でも栽培されていますが、全国の生産量8割を兵庫県産が占めています。
特に、三木市や加東市の一部は特A地区に指定されており、この地区産の「山田錦」が珍重されています。

「山田錦」の特徴

一般的な酒米の千粒重は25 - 29グラムですが、山田錦は27 - 28グラムです。
山田錦の心白は線状心白で、心白発現率は 70%程度です。
米粒が大きく、心白も大きく、高精米が可能であり、砕米が少ないのが特徴です。
通常の米と比較すると雑味の原因となるタンパク質・アミノ酸が少ない品種です。
短稈が約130㎝程と長いので、強風で倒れやすく、病気や害虫に弱いので作りにくい酒米です。