京都府でお酒の売却をご希望のお客様は...
京都府にお住いのお客様は買蔵の本部(横浜)で受付いたします。
宅配買取はこんな方にオススメ
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少ない本数でもわざわざ出張買取や店頭買取を利用するのはちょっと。。。とお考えのお客様には、宅配買取がおすすめです。
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当社のスタッフは親切丁寧な接客態度を常に心がけていますが、
やはり対面でのやり取りには抵抗があるとお考えのお客様もいらっしゃることと思います。
宅配買取であれば、誰とも会わずにスムーズに買取させていただくことができます。安心してご利用ください。
【宅配買取の流れ】
まずはお電話かお問い合わせフォームからお気軽にご連絡ください。
宅配キットをお客様のご自宅までお送りいたします。また、ご不明な点やご不安な点がありましたら、気軽にご相談ください。
宅配キットが届きましたら、丁寧に梱包してください。
配送中にキズがつくと、せっかくのお酒の価値が下がってしまいます。
梱包後、必要書類に記入していただき書類を宅配キットに同封し、佐川急便の着払いにて配送ください。
お客様のお酒が届き次第、査定させていただきます。査定後、お電話かメールにてご連絡いたします。
査定金額にご納得いただけた場合には、ご指定の銀行口座にお振り込みいたします。
査定金額にご納得いただけない場合には、お預かりしたお酒は責任を持ってお客様までお返しいたします。
京都府とお酒
京都のお酒関連の神社
京都市西京区にある松尾大社は秦氏により、大宝元年(701年)に創建された京都最古の神社です。
松尾神は「神々の酒奉行である」とされ、神事には狂言「福の神」が奉納されます。また、酒神として酒造関係者の信仰を集め、松尾大社に奉納された多くの酒樽が、その信仰の篤さをあらわしています。
松尾神を酒神とする信仰の起源は明らかではありませんが、秦氏が酒造技術に優れたことに由来するともいわれ、『日本書紀』雄略天皇紀には「秦酒公」の記載もあります。
酒造については秦一族の特技とされ、秦氏に「酒」という字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが察せられます。
秦氏には酒造りの技能者が多く、室町時代末期頃から松尾大社が「酒造第一祖神」として崇拝されるようになりました。
社殿背後の霊泉「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないといわれ、醸造家がこれを持ち帰る風習が残っています。
京都市右京区の梅宮大社は、酒の神をまつる神社で、本殿には、酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神の4神が主神として奉られています。
11月の上卯の日に「醸造安全繁栄祈願祭(上卯祭)」が執り行われ、4月の中酉日に「献酒報告祭(中酉祭)」が行われます。これらのお祭りには酒造関係者らが参拝しています。
他所酒(よそざけ)
他所酒とは、室町時代から江戸時代にかけて、京都以外の土地から京都に入ってくる日本酒のことを呼んだ名称です。
室町時代、京都の造り酒屋は隆盛を極め、応永32年(1425年)には洛中洛外の酒屋の数は342軒を数えました。
しかし、京都以外にも高い技術を持った造り酒屋が生まれ、その酒が安い値段で京都に流入しました。
これに対して京都の酒屋は自分たちの造った酒が売れなくなると危機感を強め、その販売差し止めを朝廷や幕府に要求し、朝廷や幕府もしかたなくそれに応じました。
京における他所酒の売買を禁止する法令が発せられましたが、かえって酒を飲む庶民や文化人の間では他所酒への人気と需要は高くなりました。ご法度をくぐり抜けて京に入ってきたお酒は、「抜け酒」とも呼ばれました。
他所酒で量的にいちばん多かったのは近江から入ってくる『大津酒』で、伊丹・灘・西宮の酒も他所酒とよばれました。
他所酒はのちに日本各地に開花する地酒の出発点にもなりました。
安土桃山時代には、南蛮貿易によって商品流通が国際化しました。南蛮酒として琉球の泡盛、中国・朝鮮の珍酒や薬草酒、アラビアや地中海方面からのアラックやワインなども他所酒として入ってきました。
京都洛中の酒蔵
室町時代に洛中には約350軒の造り酒屋があり、お酒造りは盛んでした。
京都洛中の酒蔵は、明治19年の165軒から、大正元年には81軒、昭和元年に69軒に減少しました。
戦時統制で昭和18年に20場に減少しましたが、昭和28年には29場まで増えました。
しかし、昭和48年(1973年)の生産規制等廃止の年は17場、昭和60年(1985年)に 5場、平成3年(1991年)
には2場まで減少しました。
平成23年(2011年)に3場となり、現在まで続いています。
日本の酒蔵の数が減少しており、東京の23区内にある酒蔵は1軒のみとなっています。
伏見のお酒事情
京都のお酒を語るには、伏見のお酒を知ることが欠かせません。
伏見酒の誕生する土地、京都盆地は太古には琵琶湖より大きな湖でした。大地の隆起により水が引き、京都盆地周辺の至るところに沼沢地や扇状地ができました。そこに古代の人たちは住み、生活を営みました。京都盆地の南端にあたる伏見でも、古代人たちが暮らしていた農耕集落が発掘されています。稲作農耕の伝播と共に、酒造りも始まり、伏見でも古くから酒造りが行われていたと考えられます。
5世紀には渡来系氏族の秦氏らが酒造技術をもたらしました。8世紀になると平安京の造酒司で行われた高度な酒造りの影響を受けながら、伏見の酒は発展を続けてきました。室町時代には、京の洛中・洛外に340軒程の酒屋があり、伏見の酒屋も含まれていました。
伏見の興隆
豊臣秀吉の築いた伏見城が完成すると、諸大名が伏見に屋敷を建てました。また、多くの町民も伏見に移住して、日本一の城下町が形成されました。「伏見酒」や「伏見樽」などの、伏見が酒どころとして知られるようになるのはこの頃からです。
徳川時代になると、伏見城も大名屋敷も取り壊されました。しかし、伏見の町は淀川と高瀬川の水運により、京と大坂を結ぶ水路の要衝として繁栄しました。 旅人の往来が盛んになるにつれて、伏見の酒商いも拡大していきました。かつて伏水(ふしみ)とも称され、良質の地下水に恵まれていた伏見では、酒産業が発展していきました。
宿場町、港町の地酒として、伏見酒は醸造高を次第に増し、京の街や江州にも販路が広がりました。
明暦3年(1657年)には、伏見の酒造家の数は83となり、その造石数は1万5千石余に達しました。
伏見酒の苦難の時代
京の街では、公家の近衛家に庇護された伊丹酒が参入するようになり、一方で伏見酒は販売が制限される事態に陥りました。伏見の街へは、江州から安価な酒が入り伏見酒は販売面ではかなり不利な状況になりました。また、大坂の船問屋を通じて灘酒や他の酒とともに相当量の伏見酒が江戸へ出荷されていました。しかし、伏見は海路から遠いという点で不利でした。
こうした事情を反映し、明暦3年に83軒だった伏見の酒造家も、その数や生産量は次第に減少しました。江戸末期までの200年間に伏見で酒造業を続け得たのは、2軒でした。
幕末には鳥羽伏見の戦いでは、町のほとんどが戦災で焼かれてしまい、経済も混乱をきたしました。
淀川三十石船の旅客の往来によって栄えていた伏見の街はさびれ、伏見酒の販路も大幅に縮小され、酒造業の経営はとても困難なものとなっていました。
伏見酒の再興
明治10年(1877年)に西南の役が収まり、ようやく経済も安定しはじめ、明治22年(1889年)には東海道線が全線開通しました。東京におけるお酒の需要回復の兆しを見て伏見の酒造家は、いち早く東京の問屋筋と交渉を始め、伏見酒が全国に広まる基礎を作りました。
明治期以降には、京都市街から伏見へ移る酒蔵も見られ、酒産業がさらに発展しました。伏見は酒どころとして灘と並ぶ日本酒の二大産地の一つとしても知られるまでになりました。
比較的低温での発酵やもろみの末期に四段仕込みを行うことにより、京料理に合う、おだやかな風味が醸し出されます。
伏見酒は東京市場への進出を目指しましたが、当初酒の輸送に関しては、鉄道はコストが高く、接続も良くなかったので、汽船の方が優勢でした。しかし、20世紀に入り、船から鉄道輸送への移行を急速に進めました。内陸部に位置する不利な地理的条件ゆえ、鉄道輸送への取り組みが他産地に比べても早く行いました。さらに1909年には、伏見酒造組合醸造研究所を設立して、酒造りに科学技術を導入し、品質の向上を行いました。こうして、全国の品評会で上位入賞するなど伏見酒の名声を高めていきました。販売面でも工夫を重ね、伏見は全国ブランドとなっていきました。
女酒・男酒、軟水・硬水
京都・伏見の酒は、カルシウムやマグネシウムなど成分をほどよく含んだ中硬水を用いて、比較的長い期間をかけて発酵させます。このことから、酸は少な目となり、なめらかで、きめの細かい淡麗な風味が産み出されます。
一方、兵庫・灘の酒は、酵母の栄養源となるミネラル分が多い硬水を用いるため、比較的発酵期間が短くなり、やや酸の多い辛口タイプの酒となります。酒造用の水に含まれる成分や、酒の造り方によって生まれる酒質の特徴をとらえ、伏見のお酒を「女酒」と呼ぶのに対し、灘のお酒は「男酒」と呼ばれてきました。