神奈川県のお客様から買ったお酒
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神奈川県とお酒
神奈川のお酒
日本酒の約80%は水で、日本酒の命ともいえる水は、酒造りにとって最も大切です。
そして、丹沢山系の水は日本の三名水のひとつに数えられます。
神奈川の酒造場は、この丹沢山系を源とする相模川や酒匂川からの豊かな伏流水を仕込み水として利用しています。
13ある酒蔵も、比較的小規模なものが多いですが、高品質な手づくりの日本酒を造っています。
昔のお酒事情
歴史書である吾妻鏡によると、平安時代末期に東国武士たちは酒宴を催していたようで、その頃には神奈川県内で酒造が行われていたようです。
鎌倉時代になると、武家の都となった鎌倉で酒造も盛んになっていったようです。
室町時代になっても、鎌倉が関東の中心として繁栄し、酒造業も栄えたようです。
戦国時代になると小田原の北条氏が関東を支配するようになり、伊豆の韮崎の豪族江川氏が造っていた江川酒が重用されました。
江戸時代になり、稲葉正則が小田原藩主であった時、 小田原の町ではまだ諸白酒が造られていませんでした。大坂の諸白屋から杜氏を招くこととなり、諸白屋の息子である八三郎が招聘されました。八三郎は一緒に来た杜氏とともに上質な諸白酒を造りました。
三浦半島にある浦賀は江戸湾の入り口にある良港で、各地からの物資が集まるようになりました。 江戸時代の中頃からは、 神奈川県内に下り酒が入ってくるようになり、上質な上方の酒との競合が始まりました。
戦前のお酒事情
明治時代になると、江戸時代の酒株制度が廃止され、明治12年(1879年)には神奈川県に1,073場もの蔵元がありました。しかし、造石税が導入されると経営体力のない蔵元の撤退が相次ぎ、明治25年(1892年)には278場まで蔵元が減りました。大正13年(1924年)の統計によると、神奈川県の清酒製造場数は79場まで減少し、小規模な蔵元が多かったようです。
神奈川県の蔵元は、酒造先進地と比べると、企業規模や製造量に差があるだけでなく、 醸造技術の面でも遅れをとっていました。 そのため、明治時代末期より酒造同業組合を中心に醸造指導や講習会などが行われるようになりました。しかし、蔵元は技師を呼んで行う醸造指導に消極的でしたが、 少しずつ県内に新たな醸造技術が浸透していきました。
昭和初期には全国や関東の品評会で入賞する蔵が現れるようになったのは、品質向上活動の成果の現れと考えられます。
しかし、第二次世界大戦中の企業整備令によって、神奈川でも多くの蔵が合併や転廃業を強いられ、蔵元の数は20あまりまでに減りました。
戦後の神奈川の酒造業
戦時中の企業整備令で転廃業を余儀なくされた蔵元が、醸造の再開に動き始めました。久保田酒造や泉橋酒造が醸造を再開しましたが、酒造の再開を断念した蔵元も多かったようです。
大手酒造会社は、販売力に比べて割り当てられる酒造米が少ないので、 足りない分を桶買いしていました。
昭和40年ごろには、神奈川の中小の蔵元が大手酒造会社に桶売りをするようになっていました。
1969年(昭和44年)産の米から、 酒造米は配給制度から自主流通米制度に移され、 各蔵元は自由に酒造米を買えるようになりました。 桶売りをしていたいくつかの蔵元は、この時期に廃業してしまいました。
こうした状況を乗り切るために、1973年に発売されたのが、共同銘柄酒の「丹沢ほまれ」です。 8場の蔵元と 地元の酒販組合が協力して販売したもので、 1982年には780klも出荷しました。 「丹沢ほまれ」の発売前は合計生産量の40%を桶売りに頼っていましたが、 発売後は8場の内、6場が桶売りをやめました。 丹沢ほまれにならって、「大山泉」、「酒匂川」、「一夜城」などが発売されました。
横浜の外国人居留地のビール物語
日本で最初にビールを造った人物が誰であったかは、 はっきりしません。 最初に日本でビールを造り、一般に販売したのは 横浜の外国人居留地に住む外国人とされています。 外国人居留地初の醸造所ジャパン・ヨコハマ・ブルワリーは1869年(明治2年)に開業しましたが、1874年(明治7年)頃には廃業してしまいました。1870年(明治3年)にはウィリアム・コープランドがスプリング・バレー・ブルワリーを開業しました。 1875年(明治8年)には、エミール・ウィーガントがババリア・ブルワリーを開業しました。
1876年(明治9年)にコープランドとウィーガントが商事組合を設立し共同経営を行いましたが、3年余りで破綻してしまいました。財産分配のために公売にかけられたスプリング・バレー・ブルワリーをコープランド自身が落札しました。しかし、裁判費用がかさんだため経営は悪化し、1884年(明治17年)にスプリング・バレー・ブルワリーは 破産してしまいました。
スプリング・バレー・ブルワリーの創業者コープランドの元でビール醸造を学んだ者が 各地でビール醸造に携わりました。
麒麟麦酒の誕生
スプリング・バレー・ブルワリーの跡地で再びビールを造ろうという機運が居留地の外国人などの間で高まりました。 そして1885年(明治18年)にジャパン・ブルワリー・コンパニーが設立されました。
設立当初の日本人株主は、 岩崎弥之助だけでしたが、 翌年の増資には渋沢栄一や後藤象二郎らも加わりました。
ドイツ風の下面醗酵ビールが1888年(明治21年)に発売され、1889年(明治22年)には「麒麟ビール」と名付けられました。
1907年(明治40年)に国内資本の麒麟麦酒株式会社となりました。 その主力工場の横浜山手工場が、 1923年(大正12年)の関東大震災により壊滅的な被害を受けました。 そのため、1926年(大正15年)、生麦に横浜工場が建設されました。麒麟麦酒の横浜工場は県下最大のビール工場です。
中小のビール醸造所
ビールの将来性に魅力を感じた明治時代の数多くの人がビールの醸造に乗り出しました。 神奈川にも「保坂ビール」、「光輝ビール」、「中谷ビール」、「横浜ビール」、「大黒ビール」などがあったようです。しかし、多くの醸造所は、醸造技術が稚拙であったり、 ビールの需要が少なかったりしたために 短期間での閉鎖となりました。
1901年(明治34年)の麦酒法で造石税を課されることになったため、長期間営業を続けることができた醸造所も廃業していきました。
比較的高温でも醸造できるイギリス風の上面発酵ビールよりも 当時の日本人の舌にあうドイツ風の下面発酵ビールの需要が高くなりました。 年間を通じて下面醗酵ビールを醸造するには 冷却設備など高額の設備が必要であり、中小資本の醸造所には大きな投資負担でした。
神奈川のワイン物語
小田原藩士の末裔、中垣秀雄は 明治22年(1889年)にアメリカへ渡り、 カリフォルニアの葡萄園でブドウ栽培とワイン醸造を6年間学びました。 帰国した中垣は北海道で野生ブドウを使ったワイン醸造に従事した後、明治30年 (1897年)には都筑郡二俣川村に葡萄園を開設しました。 ところが、乾燥地帯に適した欧州種のブドウを欧米式の整枝法で剪定したため、 高温多湿の日本の気候に合わず葡萄栽培は失敗しました。
明治35年(1902年)に葡萄園を橘樹郡保土ヶ谷町に移転し、 その農園を帷子葡萄園と名づけました。 栽培するブドウの品種を日本での栽培の実績があるアジロンダックや 岩の原葡萄園の米国種としたり、 垣根造りを諦め棚造りにするなど、 それまでの失敗を活かした栽培法をとりました。ブドウの生産は軌道にのり、大正の始め頃には、帷子葡萄園のブドウの品種は、 赤ワインがアジロンダック、白ワインがデラウェアになりました。
その後、昭和8年(1933年)には葡萄園を 高座郡大野村鶴間の相模原葡萄園に移転しました。 昭和17年(1942年)には1300石(234kl)以上の生産があったそうです。