石川県でお酒の売却をご希望のお客様は...
石川県にお住いのお客様は買蔵の本部(横浜)で受付いたします。
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【宅配買取の流れ】
まずはお電話かお問い合わせフォームからお気軽にご連絡ください。
宅配キットをお客様のご自宅までお送りいたします。また、ご不明な点やご不安な点がありましたら、気軽にご相談ください。
宅配キットが届きましたら、丁寧に梱包してください。
配送中にキズがつくと、せっかくのお酒の価値が下がってしまいます。
梱包後、必要書類に記入していただき書類を宅配キットに同封し、佐川急便の着払いにて配送ください。
お客様のお酒が届き次第、査定させていただきます。査定後、お電話かメールにてご連絡いたします。
査定金額にご納得いただけた場合には、ご指定の銀行口座にお振り込みいたします。
査定金額にご納得いただけない場合には、お預かりしたお酒は責任を持ってお客様までお返しいたします。
石川県とお酒
日本の杜氏と能登流
石川県のお酒を語る場合、まず能登杜氏のことが頭に浮かびます。
日本酒の醸造方法は、雑菌の繁殖を抑えるための寒造りで、3段仕込の並行複発酵を行うもので、世界でも類を見ないほど複雑にして精巧です。この技術を駆使して酒造りを行うのが杜氏で、繊細で複雑な工程の酒造りは、杜氏の経験と勘がその出来を左右します。
能登杜氏は、南部杜氏(岩手県)、越後杜氏(新潟県)、但馬杜氏(兵庫県)と共に日本四大杜氏に数えられます。
能登杜氏は、石川県能登半島の珠洲市や内浦町を発祥地とし、能登流と称され、味の濃い酒質が特徴です。
能登杜氏の歴史
能登杜氏の誕生は元禄時代の頃と考えられます。
能登半島の海岸沿いの地域は耕地が少なく、農業を営むには不適で、ほかに特産物もないため、農閑期には近畿地方へ酒造りのための出稼ぎが発生しました。
江戸時代以降、酒屋働きの酒男は「能登衆」と呼ばれていました。
能登衆は、他地域からの杜氏集団とは異なる、独自の酒造技術を伝承していきました。
明治時代には大津に能登衆の職業斡旋所である能登屋という組織が誕生しました。能登屋は主に近江や山城の酒蔵へ杜氏や蔵人を斡旋していました。
明治34年に石川県で初めての「酒造講習会」が開催されました。この講習会で能登杜氏の酒造技術は飛躍的に向上し、「能登流酒造り」のきっかけとなりました。これはまた、杜氏の人格の研さんに大きな役割を果たしています。
最盛期の昭和初期には、能登杜氏の活躍の場は、遠く北海道、朝鮮、樺太、満州、シンガポールの酒蔵にまで広がっていきました。
戦後の能登杜氏
第二次世界大戦後、酒造りの出稼ぎ者の数は増減を繰り返していましたが、若年層の酒造労働者の不足が目立つようになってきました。そのために、「能登杜氏共同高等職業訓練校」が設立され、蔵人の養成が行われています。
大吟醸酒造りの名手を多く輩出し、吟醸酒造りは「能登流が一番」といわれるようになった背景には、このようなたゆまぬ努力がありました。「能登はやさしや土までも」といわれる、純粋でねばり強い能登気質が酒にも表れているようです。
能登杜氏と蔵人の就業先は地元石川県だけでなく、兵庫、福井、滋賀、富山県など、北陸地方から近畿地方にかけて広く分布し活躍しています。
1996年(平成8年)には、珠洲市と姉妹都市の関係にあるブラジルのペロタス市へ技能集団として能登杜氏が招聘されました。ブラジルで需要の高い日本酒の現地生産の可能性を模索するために、3人の名杜氏が赴きました。ペロタス市周辺は日本酒の醸造適性が高いと判断されたため、珠洲市は山田錦と五百万石の種籾をペロタス連邦大学に送付しました。現地ではこれを栽培して日本酒の製造が始まりました。
能登杜氏四天王
「常きげん」の農口尚彦杜氏、「満寿泉」の三盃幸一杜氏、「天狗舞」の中三郎杜氏、「開運」の波瀬正吉杜氏は能登杜氏四天王と呼ばれます。
中三郎杜氏は平成17 年(2005年)に「現代の名工」を受賞されました。
農口尚彦杜氏は吟醸酒と山廃仕込みの第一人者として、平成18年(2006年)に「現代の名工」を受賞されました。
農口尚彦杜氏
四天王の頂点に立つのが農口杜氏で、吟醸酒造りの先駆けであり、伝統的山廃仕込みを受け継ぐ技能者でもある名杜氏です。
農口杜氏は、杜氏の家に生まれ、昭和24年に16 歳で山中正吉商店(静岡県)に蔵入りしました。
その後、三重県の西井酒造、静岡県の大村屋酒造で修業を重ね、昭和36年に28歳で石川県白山市にある有名ブランド「菊姫」の杜氏になりました。
東海地方で修業を積んだ農口さんの酒は、濃い酒が好まれる石川にはなじまず、最初の酒は薄味と不評でした。
研究を重ね、喉の通りがいい切れの良さを追い求めました。こうじ菌をコメの内部に深く食い込ませるため、繁殖しやすい条件をいかに整えるかが味の深みを左右します。
蒸したコメの粘り気を確認するために、蔵に隣接する母屋に半年間泊まり込みました。真夜中に何度も起きてはコメをかみ続ける作業が続くこともありました。
農口さんは、『自分の酒』を見つけるために試行錯誤を重ねました。2年目からは、『山廃仕込み』を学ぶため、丹波杜氏のもとに6年通いました。やっと自分の酒が造れるようになったのは杜氏になって10年目で、それまでは毎年違う酒を造っていたようです。
平成10 年から鹿野酒造(加賀市)で酒造りを行い、平成19 年には「黄綬褒章」を受章しました。
農口尚彦杜氏は、三盃幸一杜氏と中三郎杜と波瀬正吉杜氏に吟醸の技術を伝授しました。
2003年12月にポプラ社より、自身の酒造りを語った本「魂の酒」を出版しました。そして、2010年(平成22年)にはNHK総合テレビジョンの『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出演しました。
三盃幸一杜氏
満寿泉は、吟醸酒がまだ一般市場では認められていなかった昭和40年代半ばに、蔵の存続をかけて吟醸造りの道を歩み始めます。現在は、「吟醸の満寿泉」と称されるようになった桝田酒造店ですが、この蔵を全国の名だたる吟醸蔵として育て上げたのが、現当主と三盃幸一杜氏です。
三盃幸一杜氏は、父も祖父も親類も杜氏という家系に生まれ、18歳でこの道に入りました。
そして、父の後を受けて、27歳で初めて杜氏として満寿泉に蔵入りしました。満寿泉の杜氏になってその手腕を大いに発揮しました。
三盃幸一杜氏は、農口杜氏より4~5歳年上のようですが、農口杜氏から吟醸造りを習得したようです。
三盃杜氏の醸しだす満寿泉は、吟醸香と旨味が溶けあう安定した綺麗な味わいが生まれます。美味しいその酒は、麹を締めたしっかりした造りで、「吟醸の満寿泉」の名に恥じない、吟醸の王道をゆく地酒です。
満寿泉は、早くから全国の鑑評会で実績を残し、金賞受賞の常連蔵として北陸の吟醸酒のレベルを引き上げたと言うことができます。
中三郎杜氏
中三郎杜氏は、昭和32年に20歳で静岡県の山中正吉商店に蔵入りし、28歳で杜氏になりました。
昭和46年から石川県の車多酒造の杜氏になり、味のあるキレのいい酒を造るために山廃造りをやっています。
山廃造りは米のうま味を引き出しやすく、酸が出るのでキレのいいお酒になります。しかし、味覚の中でも酸の感じ方は一番ばらつきます。酸の感じ方の違いで、同じ酒でも甘いという人もいれば辛いという人もいます。
一番うまいと感じさせるバランスが杜氏の腕で、全国新酒鑑評会の金賞を通算18 回受賞(連続11 回を含む)という輝かしい実績をあげています。
名酒「天狗舞 大吟醸 生酒 中 三郎」は、杜氏の名誉をかけた本物のお酒です。
杜氏という仕事は、酒を飲んでくれる人のためにあるので、飲む人に喜んでもらえる酒が良い酒と考えているそうです。
蔵人の和がによって良い酒が生まれるという「和醸良酒」をモットーとして、毎年「一年生」の気持ちで蔵入りするようです。
2005年に中三郎杜氏は「麹及び山廃酒母製造に関する技能に卓越し、山廃仕込純米酒の製法を確立した」として、「現代の名工」を受賞されました。
波瀬正吉杜氏
波瀬氏は昭和23年に静岡県御殿場の「富士自慢」で酒造りの道に入りました。厳しい杜氏のもとで、しっかりした酒造りを懸命に覚え、9年間の修行をしました。その後、能登輪島の蔵で蔵人頭となり、7年間の修行を積み重ねました。昭和43年秋に土井清愰社長に土井酒造場の杜氏として招聘されました。
そのころは、酸味の多い日本酒の時代でしたが、土井社長から「食中酒として女性にも気楽に飲め、価値観の高い美酒を造りたい」との酒造りの夢を告げられました。
『我慢強い能登男』波瀬正吉杜氏は、手首の骨が折れても入院せず、腕をボルトで固定して名酒を酒造りを続けました。
大吟醸酒用の代表的な静岡酵母のHD-1は、波瀬正吉杜氏と土井酒造場のイニシャルから名付けられたことは有名です。