千葉県のお客様から買ったお酒

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千葉県とお酒

香取神宮とお酒
千葉県の香取神宮は、鹿島神宮、息栖神社とともに「東国三社」といわれ、江戸時代の1700年に、第5代将軍徳川綱吉により造営されたました。
香取神宮のお神酒「香取」は、千葉県で2番目に古い寺田本家が造っています。
寺田本家は江戸時代の延宝年間(1673年~1681年)に近江国(今の滋賀県)から移住して、今の地(神崎)で酒造業を営むようになりました。関東では、近江商人を出自とする酒造が多く存在します。

成田山新勝寺とお酒
天慶3年(940年)に開かれた成田山新勝寺の本尊不動明王は、真言宗の開祖、弘法大師空海が自らが造り出した仏像です。この新勝寺のお神酒を造っているのは千葉県で3番目に古い鍋店(なべだな)という酒造会社です。
元禄2年(1689年)に佐倉藩より酒造株(1,050株)を得て、成田山門前にて醸造を開始した、歴史のある蔵元です。

千葉県の酒造りの歴史
千葉県の現存する造り酒屋で最も古いのは、君津市久留里の吉崎酒造で、創業は寛永元年(1624年)です。
久留里は里見氏の居城と知られる城下町です。
「上総掘り」という伝統的な工法により自噴井戸が掘られ、この良質な湧き水を利用して清酒が造られました。
出来上がったお酒は、小櫃川を下って木更津に集められ、江戸に送られていました。
江戸時代に創業した千葉県の酒蔵は、城下町、門前町、河岸などにに集まっていますが、利根川水系の河岸が最適地でした。
当時の流通の主役は水運で、江戸を中心とした利根川水系は重要で、銚子湊の築港により1654年に江戸への水路が確保されます。それを追うようにして、佐原・神崎地域でも次々に酒造家が生まれました。

伊能忠敬と酒造り
日本地図で有名な伊能忠敬の伊能家は佐原きっての名家で、佐原で最初の酒造家になりました。
江戸時代、経済の基盤である米価の調整は重要で、米を大量に消費する酒造りは幕府から厳重な統制を受けていました。米価が非常に高く、酒造が厳しく制限された時期には伊能家も酒造りを休みました。
宝暦年間の初期に豊作が続いたため、米価の下落を防ぐために、幕府は宝暦4年(1754年)に勝手造り令という規制緩和を行いました。
酒造制限が緩和されると、伊能家も酒造りを再開し、千石以上の大規模醸造を行うようになりました。

「関東灘」
江戸時代の後期は、下り酒の代表・灘の酒が全盛の時代でした。佐原の酒は主に地元で消費され、灘の酒が江戸に入って来ない時だけ補佐的に江戸に入りました。
佐原の酒は「関東灘」といわれ灘酒に次ぐ品質といわれましたが、幾多の制限例や腐造などで安定した酒造りは困難でした。
伊能家では、経営の多角化もあって、徐々に酒造りは縮小しやがて廃業になりました。
一方、品質の向上と量産化に成功した灘酒は幕末には江戸の消費量の九割近くを占めるようになりました。
これと逆の動きをしたのが醤油です。
享保11年(1726年)に大阪から入った醤油は全体の76%を占めていましたが、文政4年になると、ほとんどが関東産になりました。野田、銚子の濃い口醤油は上方の薄口醤油を駆逐してしまったのです。

寒造りと杜氏制
幕府が進めた寒造りは、優れた醸造方法であり、高品質のお酒を生み出しました。しかし冬期のみの醸造は大規模な生産能力と大きな労働力と財力が必要になります。寒造りの定着は、酒造りの労力を農閑期の百姓に頼ることになり、杜氏制へと発展していきました。

佐原の酒造技術
佐原の酒造技術が進んでいたので、秋田藩の奉行・佐藤時之助は酒造を振興させるため佐原に来ました。
そして、佐原村の酒造技術者「星野友七」を秋田へ招きました。星野は秋田藩内の各地で酒造を指導し、弟子の養成にも努力しました。門下生である優秀な酒造技術集団は「星野杜氏」と呼ばれ、秋田近代酒造の基礎を築きました。

明治期の千葉の酒造り
明治12年に、千葉県には八百人の清酒醸造家がおり、生産量は全国26位でした。
千葉県に特徴的なのが、濁酒の醸造が飛び抜けて多いことで、全国の23%を占めます。濁酒の生産量が千葉、東京、神奈川と続くのは、東京周辺に集まった大衆が、高い清酒より安い濁酒を選んだ結果です。
さらに千葉県は焼酎の生産も多く、鹿児島、熊本に次いで3位です。千葉の焼酎は、酒粕を原料とした「カストリ焼酎」で、薫りが高く癖もない良質なものでした。

明治期の酒造技術
明治時代の酒造技術は経験とカンに頼る未熟なもので、火落ちや腐造も少なくありませんでした。
明治37年、大蔵省は醸造試験所を設立し、地方の小さな造り酒屋まで指導を行いました。
この結果、酒造技術は向上していき、全国の酒は確実に旨くなっていきました。
しかし画一的な指導の結果、酒蔵の特徴は薄まり、出来上がるお酒は平均化していきました。

新しい醸造技術
温暖な千葉県の気候は、お酒の寒造りには向いていません。安全に醸造を行うためには、醸造期間を短縮することが重要でした。
醸造試験場は明治42年に山卸廃止モト造りを発明しました。重労働のモトすり作業を省略し、蔵人の労働を大きく軽減しました。
翌年には、乳酸を添加する「速醸モト」が考案され、酒母の製造期間が大幅に短縮されました。
酒母の製造期間は、生モトの約20日に対し、山廃は15~6日、速醸モトは6日と短くなりました。
温暖な千葉県で安全に醸造を行うため、非常に早期に速醸モトが導入されました。

大正期の酒ロマン
寒造りが一般化した清酒造りにおいて、通年醸造は醸造家の夢でした。冷蔵装置と酒造技術の進歩は、夢の実現を約束するように見えました。この夢の実現に取り組んだのが、大正8年に市川市に設立された関東酒造株式会社です。
大正9年から醸造が始まりましたが、品質が安定せず、大正十五年に休造しました。温度管理はしたものの湿度などの管理が考慮されないため、酒質が劣ってしまったようです。
なお同様な目的で大正7年に市川市に設立された帝国酒造は味醂と焼酎を生産しました。帝国酒造の味醂と焼酎は、千葉県内の生産量の多くを占め、焼酎はほぼ寡占状態になりました。

昭和の甘くて荒い酒質
明治から大正にかけて、清酒は辛口全盛でしたが、昭和に入ると甘口がもてはやされるようになりました。戦争により、甘いものが欠乏したためともいわれます。戦国時代の甘口のお酒が連想されます。
また販売量に関係なく、醸造査定した量で課税される造石税であったので濃い酒が歓迎されました。販売時に水で割り、増量させればその分量だけ節税にもなるからです。

太平洋戦争期の酒造状況
戦争の長期化と米不足は、清酒生産量と酒蔵の大幅な減少をもたらしました。
昭和10年には124軒に減少し、さらに戦時中の統制の影響があって、昭和20年には66軒まで減少しました。

戦後の千葉県の状況
現在組合員数40軒となっており、千葉県の生産量は全国で7番目です。
房総半島の温暖な気候は、本来清酒造りには不向きですが、山廃仕込みなど酒蔵が独自で醸造法の研究を進めるなど、努力と工夫の下に清酒造りが続けられました。
越後杜氏と南部杜氏が主流で、その技術力が造り出す酒は独自のスタイルを持つものも少なくありません。
しかし、千葉県のお酒は、総体的にはやや淡い酒質の辛口タイプが多く見られます。

オリジナル酵母
平成8年には県オリジナル酵母として「手児奈の夢」が開発されています。

千葉県の酒造好適米
酒造好適米「総の舞」は「白妙錦」を母、うるち品種「中部72号」を父にして育成されました。倒伏や冷害、いもち病に強く作りやすい品種で、心白は約80%の玄米に発現します。「総の舞」の心白は形が小さめで形状が良好なため、玄米を60%以下に精米して醸造する吟醸酒にも向きます。「総の舞」の発酵経過は「山田錦」並みに良好で、吟醸造りで製成された酒は、調和のとれた香味の酒質と評価されました。
千葉県での栽培特性に優れた酒造好適米として、平成14年から多くの蔵元で使われています。