大分県でお酒の売却をご希望のお客様は...

大分県にお住いのお客様は買蔵の本部(横浜)で受付いたします。

宅配買取はこんな方にオススメ

出張買取に来てもらうほどの本数はない

少ない本数でもわざわざ出張買取や店頭買取を利用するのはちょっと。。。とお考えのお客様には、宅配買取がおすすめです。
買蔵からお送りする宅配キットにお酒を入れて、買蔵まで発送していただくだけなので、手軽にご利用いただけます。

店頭買取のために来店する時間がない、店舗が家から遠い

宅配買取なら、「日本全国、どこへでも」ご自宅にお送りした
宅配キットで時間や場所を気にせずいつでも買取させていただきます。

対面でやり取りすることに抵抗がある

当社のスタッフは親切丁寧な接客態度を常に心がけていますが、
やはり対面でのやり取りには抵抗があるとお考えのお客様もいらっしゃることと思います。
宅配買取であれば、誰とも会わずにスムーズに買取させていただくことができます。安心してご利用ください。

【宅配買取の流れ】

STEP.1 kaitori-mail

まずはお電話かお問い合わせフォームからお気軽にご連絡ください。

宅配キットをお客様のご自宅までお送りいたします。また、ご不明な点やご不安な点がありましたら、気軽にご相談ください。

STEP.2 takuhai-hako

宅配キットが届きましたら、丁寧に梱包してください。

配送中にキズがつくと、せっかくのお酒の価値が下がってしまいます。

STEP.3 takuhai-kuruma

梱包後、必要書類に記入していただき書類を宅配キットに同封し、佐川急便の着払いにて配送ください。

STEP.4 kaitori-ichiman

お客様のお酒が届き次第、査定させていただきます。査定後、お電話かメールにてご連絡いたします。

査定金額にご納得いただけた場合には、ご指定の銀行口座にお振り込みいたします。

査定金額にご納得いただけない場合には、お預かりしたお酒は責任を持ってお客様までお返しいたします。

大分県とお酒

豊後練貫酒(ぶんごねりぬきざけ),/h4>

大分県には、「豊後練貫酒」が1468年に登場します。
この酒は、もち米、白米、麹、焼酎を一度に仕込み、30~40日経ってから臼でひき、絹漉ししたものです。
今の白酒や、清酒のような味で広く庶民に飲まれていたようです。
また明との交易品として豊後の練貫酒が輸出されていたとのことです。

麻地酒(あさじざけ)

江戸時代になると、全国にその名を知られる「麻地酒」が豊後の国に誕生します。
 麻地酒は、蒸し米と米麹と水を仕込み、密封して土の中に埋めます。翌年の土用頃まで熟成させてつくる甘美な濁り酒です。土中に埋められ、草茅などで覆われるので「土かぶり」とも呼ばれたようです。
日出藩の麻地酒誕生には秘話があります。
寛文の時代(1670年頃)の話です。古刹康徳山松屋寺の小僧は、寺に造ってあった甘酒を飲みたく思っていました。
たまたま和尚が外出したのを好機として、小僧は甘酒を盗み出し十分飲みました。そして、後日のためにと、之を壺に入れ附近の麻畑に埋めて置きました。ところが甘酒の味が全く一変して清酒となり、しかも一種の風味があり、美酒となっていました。此の事を知った和尚は、時の日出藩主・木下俊長公にこの美酒を贈りました。
俊長公は此の美酒の製法をとどめ、麻地酒と名づけ、藩の手で醸造に着手し、二の丸に貯蔵しました。以来明治まで藩の将軍献上品となりました。大分の清酒の製造には、この麻地酒の伝統が流れています。

「麻地酒」を焼酎で復活

二階堂酒造は此の銘酒「麻地酒(アサジザケ)」の製法を受け継ぎ、焼酎造りに発展させました。
天然醸造ゆえに腐敗しやすい「麻地酒」を改良するため、醸造酒から蒸留酒へ切り替え、焼酎の製造を開始しました。
さらに昭和26年、麦の統制がとれてからは、麦麹の製法に努力をはらいました。
さらに、麦だけの焼酎の開発に専念し、昭和48年にむぎ100%の本格焼酎第一号が発売されました。

大分県の焼酎

一方、江戸時代の大分県の焼酎は、清酒粕を原料にして造られる「粕取(かすとり)焼酎」でした。
製造方法は、清酒粕を発酵させたものに籾がらを混ぜ、セイロで蒸してアルコール分を抽出するものです。籾がらを混ぜて、セイロの中を蒸気が通りやすくしました。
明治中頃になると焼酎の製造技術がめざましく進歩し、白糠や穀物からも焼酎がつくられるようになりました。しかし、依然として原料には米麹が使われていました。
昭和26年には麦の統制撤廃とともに本格的な麦麹の開発が始まりました。昭和47年、優れた麦麹の開発に成功し、麦麹と麦を原料にした麦100パーセントの大分の本格焼酎が誕生しました。麦焼酎は、香ばしく、まろやかな味で口あたりがよく、酔い覚めがさわやかです。そんな大分の本格焼酎は時代の趣向にマッチし、全国に焼酎ブームを巻き起こしました。

宇佐神宮の御神酒

宇佐神宮は、大分県宇佐市にある神社で、国東半島付け根にある御許山の山麓にあります。
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社で宇佐八幡・宇佐八幡宮とも呼ばれます。
石清水八幡宮・鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡宮の一つです。
主祭神として、八幡大神(応神天皇や神功皇后が祀られ、古くから皇室からの崇敬を受けています。
奈良時代の称徳天皇の時に起きた皇位継承を巡る宇佐八幡宮神託事件でも知られます。
民潮酒舗は大正11年(1922年)に大分県宇佐郡柳ケ浦村の津島屋本家から分家し、現在地で酒造業を開始しました。
蔵に伝わる宇佐神宮御用達縁起によれば、平安時代末に大宮宇佐公通公と津島屋の先祖の関わり合いがあり、民潮酒舗は由緒ある蔵元です。
八幡宮の総本社や八幡神を祀る御許山の伏流水で醸す御神酒はつとに知れわたり、戦前は海軍の御用達にもなりました。
民潮酒舗は現在、宇佐神宮の御神酒造りのほか、国東半島六郷満山寺院の御霊酒も造っています。

大分県の酒米「大分三井120号」

三井郡の篤農家が明治41年(1908年)に、福岡県三井郡の白葉枯病試験地で栽培されていた「神力」と「愛国」の雑種第二代の個体を持ち帰りました。その篤農家は、自分の圃場で選抜による品種改良を行い、生まれた品種を「三井神力」と名付けました。これは後に「三井」の通称で呼ばれるようになりました。
大正8年(1919年)に大分県農業試験場では、「三井」の品種改良を始めました。
耐病性や品質にすぐれ、脱粒しにくい系統を分離し、大正14年(1925年)に固定種として「大分三井120号」が生まれました。
「大分三井120号」は、昭和10年代に大分県の奨励品種となり、大分県全域で栽培されていました。
しかし、後年開発された品種に比べると、稲穂の背丈が高く、粒が大きく脱粒しやすいという欠点がありました。
ヒノヒカリの栽培が広まり、昭和40年代に入ると「大分三井120号」は次第に栽培されなくなり、姿を消しました。

小松酒造場と「大分三井120号」の復活

小松酒造場は明治元年(1868年)に清酒専業蔵として創業しました。
蔵のある宇佐市長洲地区は、酒造りに適した水と、宇佐平野でとれる米、冬の季節風という酒造りに適した環境の地です。
昭和63年に一旦製造を休止し、製造を外部委託にしました。
しかし、平成20年に六代目現当主が蔵に戻り、20年ぶりに生産が再開されました。
平成21年(2009年)に、別府市内成で「大分三井120号」が試験的に栽培されました。
これを知った当主は種もみを譲り受け、平成22年(2010年)から酒米として栽培を開始しました。
そして、平成23年(2011年)に「大分三井120号」を使った日本酒が復活されました。
年々「大分三井120号」の生産量を増やし、酒米として見事に復活しました。
麹米と掛米に「大分三井」をつかった「豊潤 特別純米 大分三井」は蔵元の熱情と「大分」の全てが詰まった日本酒といえます。
小松酒造場は高品質な清酒に的をしぼり、家族中心で丹精込めて酒造りに励んでいます。

浜嶋酒造の生産再開

浜嶋酒造は明治22年(1889年)に造り酒屋として創業しました。
昭和54年に蔵は製造をストップし醸造を外部に委託するようになりました。
平成2年に家業を継いだ6代目現当主の頭には、所持している醸造免許のことがありました。
酒を造りたいという思いは強く、国税庁の醸造試験所で学び、いくつかの酒蔵で蔵人を体験しました。
7年目の平成9年1月に、現当主は自らが杜氏という立場で酒造りを始めました。
酒造りの修行で身に付けた技術をベースに、自分の感覚のみでの初挑戦でした。
『美酒探究』をテーマとして、美味しく安心して飲める酒造りをしています。
日本酒の原料は日本人の主食であるお米で、そのお米を発酵させて出来るものが日本酒です。田園地帯である恵まれた宇佐の地で、自ら農家宣言をして米作りも行っています。
現当主の米作り日記には、「五百万石」、「若水」、「日本晴」、「山田錦」、「大分三井」、「ヒノヒカリ」の米作りの記録が載っています。
できるだけ薬を使わない米作りを行っており、収穫した種籾の消毒も60度のお湯で殺菌しています。
原料からこだわって酒を造る現当主の気持ちが伝わってきます。